10年以上前に、遺伝科学者たちがヒトゲノム計画の一環として最初のヒトゲノムのシークエンシングを完了したときには、医療科学に対するヒトゲノム解析の価値について楽観的な意見があふれていました。研究者は、極めて正確な診断、個別の遺伝子地図に合わせた薬、そしてまれな遺伝性疾患から一般的な慢性疾患まで、あらゆる病気に対する画期的な治療法が実現する時代が来ると予想していました。
ヒトゲノムの解析には、10年の歳月と30億米ドルの資金がかかりました。現在では個人の遺伝子コードのマッピング費用は、およそ1,000米ドルまでに値下がりしており、わずか数日で完了します。それでも、個人のDNAにある2万以上の遺伝子について、60億の塩基対の意味を解読するにはほど遠い状況にあります。
アルバータ大学Health Law & Policy部門のカナダ研究会座長であるTimothy Caulfield氏は、カナダの全国紙『Globe and Mail』の2012年12月の論説で、「ヒトゲノム計画の完了以降に学んだことがあるとすれば、遺伝子と人間の特質との関係は、考えていたよりもはるかに複雑であるということだ」と述べています。
もつれた網
遺伝科学者が、個別化医療の時代が到来したと告げるには、ゲノム配列データの差異や特定の疾患におけるゲノム配列の役割を理解するための、何百万人もの個人のゲノムのデータベースが必要となります。このデータベースを構築するには、ゲノムデータと包括的な医療情報の両方を提供することに同意してくれる個人の参加が必要です。科学者たちの見解は、それが実現して初めて、個人の遺伝子と、環境因子が人の健康に及ぼす影響との関係が解明できるという点で一致しています。
できるだけ多くのカナダ人のシークエンシングを行う大規模な研究構想である「Personal Genome Project Canadian」(カナダ個人ゲノムプロジェクト)のような取り組みは、科学を正しい方向に導いていると専門家は言います。しかし、このような取り組みは時間を要するうえ、本質的に極めて個人的なデータをどのように使用し、保護するべきかという重大な倫理的問題が表面化してくることも事実です。
情報公開のリスクは非常に大きいものです。個人の遺伝子地図を一般公開すると、雇用や健康保険から、融資の獲得、さらには養子縁組にいたるまで、疾病に対する素因に基づいて、マイナスのレッテルを貼られる懸念があります。リスクがこれほど高いにも関わらず、こうした大規模なシークエンシングプロジェクトに参加する各個人の健康のメリットは、大きいものではありません。特に短期的なメリットはほとんどないのです。
1,000
つい数年前には、たった100 ほどの遺伝子検査しか利用 できなかったのが、今日では 1,000種類を超える遺伝子検査により、 医師はより正確な診断、助言、 治療を行えるように なっています。
トロント小児病院(カナダ)の遺伝カウンセリングのディレクターCheryl Shuman氏は『Globe and Mail』のフォーラムで次のように述べています。「ゲノム医療は極めて有望です。しかし、すべての調査成果を理解し、背景とともに解釈するには、まだ相当な時間を要します。そして、今日までの経験から、調査結果のすべてに基礎疾患が反映されるわけではないこともわかっています」
最先端の知見
米国スタンフォード大学医学部、ゲノム学および個別化医療センター(Center for Genomics and Personalized Medicine)でDNAシ ークエンシングプログラムのディレクターを務めるGhia Euskirchen氏は、おそらく現時点で解析済みのゲノムを使用する最大のメリットは、病気の診断、疾患リスクの予測、使用すべき薬剤と用量の特定(ゲノム薬理学)であると述べています。
つい数年前には、たった100ほどの遺伝子検査しか利用できなかったのが、今日では1,000種類を超える遺伝子検査により、医師はより正確な診断、助言、治療を行えるようになっています。乳癌、肺癌、結腸直腸癌、皮膚癌に最適な薬物治療や、小児白血病の治療法を決定するのに、ゲノム薬理学がすでに応用されています。専門家は、現在臨床試験で使われている900種類の抗がん剤のうち、少なくとも3分の1がDNA検査または分子検査とセットで販売されることになると予測しています。
しかし、遺伝的変異と疾患の関連を十分立証できている研究は一握りに過ぎないとEuskirchen氏は言います。心臓病、糖尿病、うつなどの一般的な慢性疾患は、多くの場合複数の遺伝子と複雑な多数の環境因子が関わっています。たとえば、香港中文大学内科薬物治療学科教授のRonald Ma氏によると、糖尿病に関係する遺伝子の変異は60種類を超えますが、環境の影響に比べて、遺伝的要因に起因する糖尿病の発症率は70%~80%にすぎません。
ゲノムの国のアリス
このような複雑性を考えると、特に一般的な疾患については、個人の健康管理におけるゲノム情報の価値は、短期的には疑問が残ります。MDアンダーソン癌センター(米国テキサス州)のゲノム医療部門を率いるLynda Chin氏は最近、『The Wall Street Journal』紙で、「われわれはゲノムについて得られた情報のうち、約99.9%を理解していません。理解しないうちは、予測に使える割合はそれ以下です」と述べています。
明らかに、多くの複雑な難題が未解決のままです。「製薬会社と23andMe社やIllumina社などのDNAテスト会社が提携し、個人のゲノム地図と『ヒトの基本設計図』の統合を始めています。この基本設計図により、科学は多くの解を見つけるでしょう。しかし残念ながら、個別化医療の実現までには、まだまだ長く、曲がりくねった道が続いています」とEuskirchen氏は語ります。