世界最大規模の多国籍企業の最高経営責任者(CEO)たちは、つい最近まで新興国市場に酔いしれていました。中国やインド、ロシア、ブラジルを始めとする新興国市場で何百万人もの人々が貧困から抜け出し、フィリップスの電球やP&Gのおむつ、コカ・コーラの清涼飲料、トヨタの自動車を購入し始めました。
こうした多国籍企業は、最小限の努力で毎年10~20%の売上アップが可能でした。労働力も安かったためコストが抑えられ、成熟市場で販売する商品の利幅を押し上げました。
しかしそうした新興国市場の最盛期も終わり、中国の成長率は鈍化しています。ブラジルは深刻な政治問題を抱え、ロシアに対する経済制裁も大きな打撃となっています。新興国市場から大挙して撤退しているわけではありませんが、CEOたちはどこか別のところで成長を実現する必要性を認識しています。
これは多くの企業にとって、成熟市場の重要性を再認識することを意味します。しかし成熟市場では、経済協力開発機構(OECD)の2017年3月の予測によると、米国の2017年の成長率は2%をわずかに上回る程度で、ドイツやユーロ圏、英国、フランスなども2%に届かず、日本やイタリアは辛うじて1%程度です。
そのため、こうした低成長市場で収益を上げるために、多くの企業はライバルからマーケットシェアを奪おうとイノベーションに賭けています。
イノベーションを社外に求める
ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)が2015年に企業のエグゼクティブに行ったアンケートでは、回答者の79%がイノベーションを最重点課題トップ3にリストアップしていました。BCGシカゴオフィスでグローバル・イノベーション戦略部門を率いるAndrew Taylor氏は「これまでで最も高い比率です」と語ります。
成熟市場で成功するということは、他の誰かから売上を奪うということを意味します。ですからCEOたちは常に、自分たちのビジネスを壊すために投資し続けているのです。それにもかかわらず、社内の研究予算を増やしている企業はほとんどありません。今や時代の趨勢は「オープン・コラボレーション」に移っており、そうした企業は大学や独立系研究機関、スタートアップ企業との提携や協力関係を通して、イノベーションを実現する可能性を何倍にも高めています。
「誰であろうと、優秀な人たちのほとんどは他の誰かのために仕事をしているのです」
BILL JOY氏
SUN MICROSYSTEMS社共同設立者
Taylor氏は次のように説明します。「企業が社外に目を向けてイノベーションを実現しようとしていることに疑いの余地はありません。こうした考え方の根底にあるのは、社外には社内とは比較にならないほどたくさんの人たちがいるということです。要は、そうした人たちをどう活用するかです」
「安い労働力」時代の終焉
かつて繁栄していた場所で新しいアイデアを探しているエグゼクティブもいます。30年以上前に「新興国市場(emerging market)」という言葉を初めて用いたAntoine van Agtmael氏は、現在の仕事でその全く逆の動きを目の当たりにしています。
「安い労働力は、今はもう昔の話です。実際のところ、もはや時代にあまり即していません。3Dプリンティングなどの最新の製造手法を用いれば、安い労働力のメリットはどんどん薄れていきます。今後20年から25年は、競争力をつける鍵となるのはスマートなイノベーションです」(Agtmael氏)
最新の著書『The Smartest Places on Earth: Why Rustbelts are the Emerging Hotspots of Global Innovation』(Fred Bakker氏共著)でAgtmael氏は欧米の最も革新的な地域35ヵ所を特定し、調査しました。このうちの20ヵ所は米国中西部の「ラストベルト地帯」、すなわち製造業が新興国市場に移った時に大部分が見捨てられてしまった、かつての繁栄していた工業地帯です。
Agtmael氏は次のように語ります。「こうした地域には素晴らしい大学がありながら、過小評価されている資産、すなわち"思考の自由"があります。イノベーションを成し遂げるのは、"思考の自由"を必要とする自由な発想の思索家です。欧米にはそうした自由がたくさんあり、法律も整備されています。そのため、競争力が戻りつつあります」
イノベーションのアウトソーシング
Agtmael氏がイノベーションの拠点にしている場所の一つが、オランダのアイントホーフェンです。複合企業フィリップスの本社があった時のアイントホーフェンはどちらかというと活気のない企業城下町として知られ、企業城下町に潜む緩慢な危機を抱えていたと言われるようになりました。
フィリップスは多くの市場で奮闘しましたが、独自に行っていた研究開発の成果を商品化に結びつけることはできませんでした。しかし2002年に当時のCEO、Gerard Kleisterlee氏がオープン・イノベーション・モデルで大きな賭けに出ました。
Agtmael氏は次のように語ります。「フィリップスは基本的には、イノベーションをアウトソーシングし始めたのです。彼らは戦略的な選択をしました。ラボを立ち上げ、ハイテク分野の大学を設立し、その周辺に極めて好調なあらゆる種類の小規模スタートアップ企業を配置しました」
アイントホーフェンの新しい町並みの中で力強く成長したのは半導体製造装置でした。世界の半導体製造用露光装置の60%以上のシェアを持つASMLがアイントホーフェンに拠点を構えています。
フィリップスはまた、状況を注視するためのしくみを確立し、世界中のさまざまなテクノロジー分野で将来性の高い小規模スタートアップ企業に投資しました。結果的に買収に次ぐ買収を重ねた同社は、医療などの成長著しい分野の最先端技術で再びリードすることになりました。
たとえばフィリップスは、2016年6月にデジタル病理画像解析をリードする北アイルランドの企業、PathXLを買収しました。この技術により研究者は、細胞組織を物理的に分析するのではなく、デジタル画像で見ることができます。その1ヵ月後には、フィリップスは米国ジョージア州を拠点にして健康管理用ソフトウェアを提供するWellcentiveを買収しました。この買収により、フィリップスは、病院がさまざまな患者の集合データを管理し、適切な入院のタイミングを判断できるように支援する分野をリードすることになります。
米国は徹底的に協力しあう関係
「オープン・コラボレーション」の流れは欧州で始まったのかもしれませんが、それを新たなレベルへと押し上げているのは米国です。たとえば半導体メーカーのインテルや医療大手のジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)は、世界中の大学や調査機関を徹底的に調査して商品化のアイデアを見つけるためのベンチャーキャピタル事業を立ち上げました。インテルの場合、次にどうなるかは具体的なチャンス次第です。
「今後20年から25年は、競争力をつける鍵となるのはスマートなイノベーションです」
ANTOINE VAN AGTMAEL 氏
『The Smartest Places on Earth』著者
インテルキャピタルでソフトウェアとセキュリティを統括するバイス・プレジデント兼マネージング・ディレクター、Ken Elefant氏は次のように語ります。「私たちの投資はすべて、戦略的な側面と財務的な側面を一つに束ねるものでなければいけません。インテルの事業のいずれかと少しでも戦略的に一致するものがなければ、そうした企業には投資しません」
一方のJ&Jはサンフランシスコやサンディエゴ、ヒューストン、ボストン、トロントに開発拠点を展開しており、J&Jと取引することになるのかどうかに関わらず、スタートアップ企業に開発拠点を置く地元で事業を設立するよう勧めています。
J&Jボストン・イノベーションセンターの責任者、Robert G. Urban氏は次のように語ります。「イノベーションを実現する人たちと場所を問わずに協力し合うには、私たちのような大企業がそれを産業化する必要があります。私たちが事業で実現しようとしていることと軌を一にする具体的な分野で作業を進めています」
イノベーションを加速するためにJ&Jでは、社内の研究員と、同じ分野のスタートアップ企業との間の関係を育んでいます。
日本はさまざま
日本の企業は、米国や欧州で競合他社が活用しているような「イノベーションを後押しする状況」を国内で作り出すのは難しいようです。
日本には、たとえば小径のボールベアリングで世界の60%以上のシェアを持つミネベアミツミ、そして自動車排ガス測定システムで世界の80%のシェアを持つ堀場製作所など、多くのテクノロジー企業があります。
しかし日本のメーカーは、「オープン・コラボレーション」に携わると独自のテクノロジーが漏れ出てしまうことを懸念して慎重になる傾向にあります。日本の大学も自分たちのテクノロジーの商品化には及び腰で、科学者にも大学や研究機関をやめて起業家になろうという人は少なく、初期段階での元手も十分ではありません。
東京の早稲田大学で教鞭を執る田村秀男教授は次のように語ります。「日本では、国も国民もリスクを回避するように教え込まれ、そうした感覚がとても強烈に、頭に刷り込まれています」
田村教授は、日本が昔から得意としてきた半導体や家電製品でさえ大きく衰退しており、ロボット工学における優位性を維持するには開発に積極的に取り組む必要があると指摘します。
そのため日本の企業の中には、米国や欧州のライバルたちをそっくり真似ているだけではリードすることはできないと認識している企業もあります。そうした企業のCEOたちは、人工知能やフィンテック、次世代ロボット、自動運転、ライフサイエンス、IoTなどを始めとする新しいテクノロジー分野で足掛かりを得たいと考えています。
大きな変化の中で、日本は最先端の研究で世界的に認められ始めています。たとえば九州大学の林克彦教授は、マウスの皮膚細胞から正常な卵子を作製し、その卵子を使って健常なマウスを誕生させることに成功しました。この成果は、不妊症分野での画期的な発見の基礎になると見られています。また、2016年には『サイエンス』誌の世界10大科学ニュースに選ばれました。
しかし、基礎的な研究開発は結果が出るまで数年はかかります。そのため、日本最大の企業であるトヨタ自動車はオープン・イノベーションのためのさまざまな手法を採用しています。
新しい推進システムや先進安全・自動運転技術、さらには個人所有から共同利用へ自動車の所有形態がシフトしていくことで自動車業界は一変します。こうした傾向がどのように進化するのかを見据えるために、トヨタ自動車は2015年に、カリフォルニア州パロアルトの人工知能(AI)研究機関に5年間にわたって10億ドルを投資する計画に乗り出しました。この研究機関はアップルやテスラ、ならびにグーグルの関連企業であるウェイモが自動運転車の研究を実施している場所の近くにあります。初期段階での成果がすでに次世代のトヨタ車や組立ラインでテストされています。
79%
ボストン・コンサルティング・グループ(BCG)が2015年に企業のエグゼクティブに行ったアンケートでは、回答者の79%がイノベーションを最重点課題トップ3にリストアップしていました。これはこれまでで最も高い比率です。
トヨタ自動車は2017年1月に、「Yui(ゆい)」という名前のAIを搭載するコンセプト車を発表しました。これは人型ロボットのように話しながらドライバーの役割も果たす車であり、トヨタ自動車の自動運転のビジョンをさらに進化させたものです。関連会社のデンソーは東芝とジョイント・ベンチャーを立ち上げ、DNN-IP(Deep Neural Network-Intellectual Property)と呼ばれる画像認識システム向け人工知能技術を開発しています。DNN-IPは次世代の画像認識システムで使われ、先進のドライバー安全機能を実現し、最終的には完全な自動運転車を目指します。
トヨタ自動車は2016年11月に、リチウムイオン電池の充放電を観察する世界初となる手法を発表しました。これは電池の性能持続・耐久性向上につながる画期的な成果です。そして12月にはオープン・イノベーション・プログラム「TOYOTA NEXT」の開始を発表しました。これは共同開発やライセンス供与のかたちで他企業がトヨタのテクノロジーを利用できるようにするものです。
トヨタ自動車の常務役員、村上秀一氏は最近行われた記者会見で次のように語っています。「TOYOTA NEXTでは、弊社は自前主義にとらわれることはありません。新しいアイデアやテクノロジー、ソリューションのみならず、すでにサービスを開始している事業等も活用して新しいサービスを共同開発していきます」
投資や買収が可能なテクノロジーを求めて欧米の産業クラスターに目を向けているその他の日本企業には、ARMプロセッサ・アーキテクチャを開発する英国のARM Holdingsを2016年に買収したソフトバンクグループの例などがあります。同社は10月に、CEOの孫正義氏のリーダーシップの下、サウジアラビア政府とのジョイント・ベンチャーにより、IoTプロジェクトに特化した1,000億ドル規模の投資ファンドを設立することを発表しました。
東京に拠点を置くコンサルティングファーム、Reading Advisors LLCのDarrel Whitten氏は次のように述べています。「ソフトバンクグループの考え方は、新しいテクノロジー分野でテクノロジーや製品を展開するには、できるだけ多くの出資者といっしょに規模の経済を実現することが必要不可欠だということです。会社がどれだけ大きくても、新しいテクノロジーを単独で開発することはできません」