ライフサイエンス業界のデジタル化

デジタルトランスフォーメーションでコロナ禍を乗り越える

Lindsay James
16 November 2020

新型コロナウイルスにより、医療機関やライフサイエンス業界のバリューチェーン全体が混迷を極める中、デジタルやバーチャル・エクスペリエンスの価値が証明され、こうしたテクノロジーの利用が加速しています。まだ多くの課題が残されていますが、アナリストたちは、「この業界の未来は、変革をもたらすデジタル戦略を継続的に取り入れていけるかどうかにかかっている」という見解で一致しています

新型コロナウイルス感染症が急速に広まって閉鎖に追い込まれる企業や店舗が相次ぎ、大きなうねりとなって瞬く間に世界に波及する中、グローバルに展開するフランスの製薬会社サノフィの医療・研究開発ITS担当バイスプレジデント、Matteo di Tommaso氏は、研究開発チームや医療チームが使用するシステムを滞りなく稼働させる責務を担うITチームの作業を指揮しました。

同氏は次のように語ります。「我々の危機管理計画は瞬く間に立ち上がりました。短期間のうちに、全従業員の70%に当たるおよそ70,000名の社員が一斉に在宅勤務を開始しました」

このような突然の移行に、サノフィのチームはどのように対応したのでしょうか。最も優先したのは、在宅勤務の基盤と遠隔サポートの規模を拡大して高まる需要に確実に応えることでした。

Matteo di Tommaso氏は次のように説明します。「パートナー各社と並行して作業を行い、リスクを考慮する必要のある領域をすべてオープンにして先を見越した取り組みを行いました。この作業は、当社のクラウド・インフラストラクチャにとって重要な試みとなりました。サービス型ソフトウェア(SaaS)ソリューションへの新たな投資、そして通信システムの簡素化が実を結び、リモート・オペレーションへの移行や規模拡大に迅速に対応することができました」

グローバルな在宅勤務モデルに迅速かつスムーズに移行できたことは、サノフィのデジタルトランスフォーメーションの成果を明確に表しています。それはまた、なぜ世界の主要な業界アナリスト企業が世界的な感染拡大のことを「変革は業界にとって“歓迎すべき取り組み”だったが、もはや“生き残るために必要不可欠な取り組み”になった」転換点だと指摘するのかも明確に示しています。

「“必要は発明の母”という諺がこの状況を端的に言い表しています」と語るのは、ライフサイエンス分野で分析サービスを提供している米国のAxendia社社長、Daniel R. Matlis氏です。「むしろ、この諺をさらにレベルアップして“混乱は変革の女家長”としたいくらいです。我々は現在の混乱した状況を、ライフサイエンス分野の近代化やデジタルトランスフォーメーションにとっての重大な分岐点と捉えています」

迅速な適応

クラウドを介して提供されるデジタルサービスは、一時的な業務停止によって相次いだ最大の課題をライフサイエンス業界が克服するのをどのように支えたのでしょうか。それを明確に示すもう一つの例が、遠隔医療の迅速な導入です

ロンドンで開業しているSam Wessely医師はニューヨークタイムズのインタビューに対し、「要するに10年分の変化を一週間で経験しているのです」と答えています。「以前は診察の95%は対面で行っていました。患者が医者に行って診てもらうのは、数十年どころか数世紀にわたってあたりまえのことでしたが、そうした状況が一変してしまいました」

実際のところ、英国の国民健康保険制度(NHS)によって承認されている「myGP」アプリケーションでのオンライン診療予約件数は、3月だけでも1,451%増という驚異の伸びを示しました。一方で米国では、2020年に行われたバーチャル診療の件数が、このままのペースで推移すると10億件を超えるとフォレスター・リサーチが報告しています(新型コロナウイルス感染症に関連する診察が9億件を占める)

「この作業は、当社のクラウド・インフラストラクチャにとって重要な試みとなりました。サービス型ソフトウェア(SaaS)ソリューションへの新たな投資、そして通信システムの簡素化が実を結びました」

Matteo di Tomasso氏 サノフィ、医療・研究開発ITS担当バイスプレジデント

たとえばサノフィは、被験薬を患者に対して直接配送する方法に切り替え、病院に通わなくて済むように在宅での静脈点滴を推進し、テレメディスン(遠隔医療技術)を利用した患者診断、ビデオ会議機能やデジタルデータ収集機能を利用したバーチャルな往診もできるようにしました。

Matteo di Tommaso氏は次のように説明します。「データへのバーチャルなアクセスと遠隔でのやり取りを実現させる拡張性に優れた機能を組み合わせることが、我々の成功に必要不可欠でした。当社では、常に数多くの臨床試験が同時進行していますが、ほとんどの臨床試験をスケジュール通りに進めることができました。また、新たな新型コロナウイルスの臨床試験も即座に開始することができました。我々のチームは速さと素早い対応ができることを証明しましたが、成功するためにはIT部門のサポートやデータ管理能力が欠かせません」

一方で、新型コロナウイルス感染症のワクチン開発競争を早い時期からリードしてきたマサチューセッツ州のバイオテクノロジー企業モデルナは、臨床開発用の拡張性に優れたクラウド・プラットフォームを利用して、mRNA-1273ワクチンの第3相臨床試験を7月に開始しました。30,000人の参加が見込まれていたこの臨床試験は、参加者から直接収集したデータを取り込んで通院の必要性を減らして実施されたものとしては過去最大規模の臨床試験の一つになるとみられています。モデルナのバーチャル化されたデータ収集機能では、参加者は希望すれば自前のデバイスを使うことができ、別途支給されたデバイスを持ち運ぶ負荷を軽減してくれます。

モデルナの新型コロナウイルス感染症ワクチン30,000人の参加が見込まれていたこの臨床試験は、参加者から直接収集したデジタルデータを取り込んで実施されたものとしては過去最大規模の臨床試験の一つになるとみられています。(Photo by Amanda Andrade-Rhoades for The Washington Post via Getty Images)

モデルナでデジタル化とオペレーショナル・エクセレンスを統括するMarcello Damiani氏は、「一つに統合されたプラットフォームを使用しているため、我々は参加者を中心に据えて、新型コロナウイルス感染症に対する安全性と有効性が担保されたワクチン開発に取り組むことができます」と語ります。モデルナが自社の臨床開発を支え、加速させるために利用しているテクノロジーには、たとえば電子的データ収集機能(EDC)や電子的臨床アウトカム評価(eCOA)、一元化された統計学的モニタリングなどがあります。

準備を怠れば失敗も覚悟

しかし、世界的に感染拡大に見舞われた時点では、多くの組織においてデジタルトランスフォーメーションがそれほど進んでいたわけではありません。

Matlis氏は次のように語ります。「SF作家のウィリアム・ギブスンが『未来はすでにここにある。ただ、どこにでもというわけではない』と語ったのは有名ですが、これはまさに、我々がいまライフサイエンス業界の至る所で見ている風景です。多くの革新的な企業や医療現場が、この変化する状況に迅速に適応するために、先進のデジタルテクノロジーを駆使していますが、業界全体としては大きく遅れを取っています」

モデルナやサノフィがそうであるように、クラウドに対応したデジタルトランスフォーメーションが明暗を分ける要因となっています。

Matlis氏は次のように説明します。「私にはっきり言えることは、これら"クラウドファースト"に分類される企業は、自らのバリューネットワークを支えるために、非常に素早く効果的な方向転換ができているということです。しかし、まだオンプレミス・ソリューションを活用している企業、つまり"クラウドを使いたくない"または"興味はある"という企業はいずれも、ビジネスのさまざまな面を管理するのが非常に難しいと感じています。クラウドを利用すれば組織がどれほど快適になるのか、我々はその変化を確実に目の当たりにしていますが、おそらく"クラウドファースト"に分類される企業は全体のわずか15%から20%程度です。すなわち、改善の余地がたくさんあるということです

Matlis氏は、ほとんどのライフサイエンス企業にとってはサプライチェーンの混乱が特に難しい課題だったと語ります。

「ライフサイエンス業界にとって、原材料の入手は非常に難しい課題になっています。原薬の大半は中国やインドで生産されています。いずれも新型コロナウイルスの感染拡大によって早くから大きな影響を受け、結果的にサプライチェーンが大きく混乱しました」

Matlis氏は、そうした状況を変えるためには、業界は一つの仕入先に大きく依存しないようにする必要があると言います。しかし、事前に準備した供給・物流計画を数分で実行できる高度なデジタル・サプライチェーン・プランニング・システムを導入しなければ、さらに多くの仕入先を広い範囲に分散させて、効率的に管理することはできません

「こうしたテクノロジーは、サプライネットワーク全体の可視化と把握、適切な原料を使ったプロセス実行とスケジューリング最適化、社員が在宅勤務をする中での業務連携などに有効です。そしてこのテクノロジーの導入には、技術だけでなく、これまでの手順を変えることをためらわず、技術を取り入れていこうとする企業文化の転換も鍵となります」とMatlis氏は言います。

「私にはっきり言えることは、"クラウドファースト"に分類される企業は、バリューネットワークを支えるために、非常に素早く効果的な方向転換ができているということです」

Daniel R. Matlis氏 Axendia社、社長

良い方向に向かって舵を切る

何ができるのかがわかる最近の例としてMatlis氏があげるのが、COVID-19の治療薬開発を加速するための、製薬会社やバイオテクノロジー企業、大学の研究者の間のデジタルに対応したコラボレーションです。

「我々が現在目の当たりにしているのは、業界の最高レベルの人材をバーチャルに結集させて感染症の拡大と戦っている姿であり、未来には大きな可能性が秘められています」

バーチャルツイン(デジタルツイン)とは、「人々や製品、建物を科学的に正確な3Dで動的に表現し、理論を安全にテストしてからその結果を現実の世界で試せるようにする」もので、業界が取り組むべきあるべき姿を示唆するとMatlis氏は語ります。

「新しいバイオ医薬品を市場に投入するためには、現在は最長で15年を要しますが、デジタルツインを使えばこれを大幅に短縮することができます。臨床試験の一部のシミュレーションをバーチャルな人体モデルを使用して実行すれば、効率性を大幅に高めることができます。さらに、工程開発で時間をどれだけ節約できるのか考えてみてください。モデリングやシミュレーションなどのテクノロジーによって製薬会社はすでに、レシピを正確にスケールアップして製品の有効性が最も高まるような正確な原料配合比率を特定できるようになっています。この方法を用いると、技術移転プロセスの大部分が不要になります」

バーチャルツインを革新的な医療機器と組み合わせれば、医療の提供を刷新できる可能性があります。

マイクロソフトの最高技術責任者(CTO)、Kevin Scott氏はコンサルティング会社 マッキンゼーのインタビューで「スマートウオッチやフィットネスバンド、生体認証センサーを搭載した指輪、他にも装着者の体温や血中酸素飽和度、動作、脈拍数などを測定するさまざまなデバイスを身に着けられるようになるでしょう」と言います。「こうしたデバイスは測定したデータを診断モデルにあてはめることで、装着者が病気の場合や、病気になりつつある場合、本人が全く自覚していなくても早めに教えてくれます」

「これにより、現時点ではできないようなやり方で医療行為を行えるようになります。たとえば、それほど重篤ではない時点で患者を治療できれば、回復の可能性がより高くなります。重篤でない時点で治療を開始したほうが、症状が現われたり、さらに重篤化したりしてからよりもコストを抑えられます。これはおそらく、今後のパンデミックを乗り切る上で参考になります」

規制上の軽減措置

ただし、よりデジタル化された未来へと向かうためには、医療・ライフサイエンス分野の重要な担い手の間で緊密に連携することが求められ、規制当局の支持や承認も必要です。

Matlis氏は次のように語ります。「これを実現するためには、業界全体が一丸となって取り組む必要があります。我々はすでに、デジタルトランスフォーメーションの最大の障壁、たとえば国内における規制当局の硬直性などが解消される動きを目にしています。米国のFDA(食品医薬品局)は自身の硬直性を認識しており、機敏性を高められる新しいソフトウェアの認可プロセスを迅速化するためのガイダンスを導入しているところです。これによって、製造システムや品質管理システムなどの分野で企業が新しいテクノロジーの導入を目指す際に、現在必要な文書の70%から80%が不要になる可能性があります」

Matlis氏はさらに、このような変化は今後も、新型コロナウイルスの感染拡大のさらに先まで、デジタルトランスフォーメーションに向けた動きを後押しすると語ります。

「新型コロナウイルス感染症は、ライフサイエンス業界に何ができるのかを我々に教えてくれています。つまるところ、これまでに分かっていることは、最高の人材が最高のツールを使えるようにすれば驚くような成果を達成できるということです」

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